富山型デイサービスの誕生
「このゆびとーまれ」の誕生 ~産声をあげた富山型デイサービス~
富山型デイサービス誕生のきっかけとなった「このゆびとーまれ」は、平成5年に県内初の民間デイサービスとして始まりました。
視察に来られる方から、よく、「初めはお年寄りの利用だけでスタートし、途中からニーズがあったから障害者も子どもも受け入れたのでは」と質問されますが、そうではありません。
地域で支援が必要な方は高齢者だけではありません。惣万さんたちは、支援が必要な方を誰でも受け入れたいと考えられました。実際、このゆびとーまれの最初の利用者は、障害児でした。
事業所の開設にあたっては、縦割り行政の壁も存在しました。
当時の介護は、行政による措置制度の時代で、行政からの補助金は「赤ちゃんからお年寄りまで利用可能なデイサービス」という点が問題になり、対象を絞らなければ交付されない状況でした。
補助金のために対象者を絞るのか、「誰も排除しない」という、理念を実現することを優先するのか。惣万さんたちは、補助金のために理念を変えるつもりはありませんでした。
開設当時は公的な制度を利用しない「自主事業」として事業を開始されました。利用料金は食事代別で1日2,500円、半日(4時間以内)1,500円でした。オープンした平成5年から平成6年3月末までの一日の平均利用者は1.8人で、人件費や必要経費を支払えば、まるっきりの赤字でしたが、3年も経つと、一日の平均利用者は十数人に増えたそうです。
利用者が増えるにつれ、県などにも、民間デイサービスを支持する声が届くようになり、これらの声を行政も無視できなくなりました。平成8年度には障害児(者)の在宅を支援する制度である「在宅障害児(者)デイケア事業」が始まりました。平成9年度には「民間デイサービス育成事業」が創設され、高齢者の利用が一日当たり5人以上の事業所に、年間180万円が交付されることになり、翌平成10年度には、対象者に障害者も加えられ、行政の縦割りにとらわれないより柔軟な補助制度となりました。
このころには、このゆびとーまれの理念に共感した方々が、県内各地で同様のデイサービスを開設し始めています。
年齢や障害の有無にかかわらず誰も排除せずに柔軟に受け入れるデイサービスと、行政の縦割りを超えた横断的な補助金の交付とを併せ、「富山型デイサービス」と呼ばれるようになったのです。
富山型デイサービスを始めたきっかけ
惣万 佳代子[このゆびとーまれ]昔赤十字病院で働いていた時に、お年寄りの方が家で死にたいと言っているのに、大半の方が願い叶わず、家ではなく老人施設で亡くなられたことに憤りを感じました。家で死ぬことを願っているお年寄りをどうにか手助けできないかという思いのもと、仲間と共にこのゆびとーまれを開設しました。
阪井 由佳子[にぎやか]老人保健施設で理学療法士をしていて、利用者さんそれぞれの思いや個性まで介護者に委ねてしまうことに違和感を覚え、施設介護の限界を感じました。また自分の実体験から“自分の居場所”を求めていたことも重なり、最後までその人らしく、その人に合った生活をサポートする事業所を作りたいと思いました。
山田 和子[しおんの家]グループホームの開設準備中、宮城県松島で開かれた全国フォーラム’98に参加した際、会場の熱気に驚き、先達の発表や意見に感銘を受け、誰もが必要なときに必要な支援を受けることができる、小規模で多機能な“宅老所”のような居場所づくりを目指すようになったことがきっかけです。
宮袋 季美[ふらっと]息子が自閉症で障害者運動を行っていました。将来のために施設を見て回っていましたが、施設の環境に不満を感じていました。その頃、運動を通して繋がった方が民間の宅老所を始められ、手伝っていましたが施設が閉まることになり、その後、周りの後押しや行政のサポートもあり、公設民営で開設しました。
佐伯 知華子[ひらすま]大規模施設で看護師として働いていました。にぎやかの5周年フォーラムで富山型デイサービスと出会い、利用者さんの生き生きとした姿や笑顔に感動しました。富山型デイサービスの誰も排除せずみんなで一緒に生きるという考えに驚き、大規模施設との違いを強く感じました。そして、私も富山型デイサービスをやってみたいという気持ちになりました。
喜多 聡美[ありがた家]大きな施設で働いていた時、一方通行の介護が苦手で、一緒に食べたり、一緒に笑ったりしたいと思いました。にぎやかさんにボランティアに行ったら、一緒に公園でご飯を食べて、子どももお年寄りも生き生きのびのびしていて感激しました。自分の生まれた町にも、富山型デイサービスが絶対欲しいと、決意しました。